相反するものが同時に存在すること/Kiyora インタビュー

おもに生物をモチーフにした切り絵を制作するKiyoraへのインタビュー。ただ繊細なだけでない作品の魅力はいかにして生まれるのでしょうか。幼いころから遊ぶように楽しんでいた切り絵をコンテンポラリー表現として考え、取り組むようになった道筋を伺いました。


ご自身の切り絵作品の特長を教えて下さい。

「生きた線」と「自分の線」を描くことにはとてもこだわっています。
作品展示の場ではしばしば、
「君の作品は、なぜ立体的で動いているように見えるのか?」
という質問を受けます。
「私の線は時々、ねじれています。ツイストした箇所から動きと空間が生まれます」
と答えているのですが、「ねじれ」も意図しているというよりは私の無意識のクセが出ているんです。
私は美大で専門教育を受けたわけではなくて建築を学んでいたのですが、建築で用いる平面図では線の種類を使い分けながら切断面、近くに見えるもの、遠くに見えるものを表現します。なので、2次元の線を立体的に見るんです。

Kiyora “Ephemeral” (2019)

 

作品はいきなり紙を切っていくんですか?

いいえ、むしろベースとなる下絵を描くことにかなりの時間をかけます。切り絵だろうと油絵だろうと絵に魅力が無ければダメだと思ってます。下絵を描くときは、いつもウォーミングアップとして「ジェスチャードロー」という、動く人物を見て素早く描くデッサンのトレーニングをしてから取り組みます。わたしの場合はフィギュアスケートの動画を見たりしながらやるのですが、これはほぼ毎日やります。

生物をモチーフにしているのはどうしてですか?

植物や生物にも、構造の美を感じるんです。直線と曲線という見た目の違いはありますが、構造のリズムを持っている事は建築とも通じる部分かもしれません。例えば、オウム貝は螺旋状態に成長します。オウム貝は、四角螺旋で成長しますが三角螺旋で成長する貝もいます。同じ螺旋に見えても、成長を刻むリズムが違います。曲線や有機的なものでも成長するものであれば、どこかにフィボナッチ数列、多角形のリズムが内在しています。構造のリズムがみえたら、構造を結ぶ「間」に個性が存在している事が見えてきます。その構造を結ぶ「間」にアーティストとしての遊びや表現をしていく事がおもしろいんです。

とても繊細で細かい造形にも目を見張ってしまいます。

日本で「切り絵」というと、クラフト的な文脈で、技巧の細かさにばかり注目が集まってしまいがちなのですが、あくまでも私の作品はコンテンポラリー表現を目指しています。正直なところ、技法だけにフォーカスして評価されることには少しひっかかる部分もあるんです。とくに国内で展示をすると、
「貴方よりもっと細かく切った作品を見たことがある。貴方ももっと修行して細かい作品を作れるように頑張りなさい。」
と言われることも時々ありまして…
ところがロンドンやニューヨークで展示をすると、
「遠くから見たら版画(木版画かシルク)と思ったら、近くで見たら切り絵だった」
「版画だったとしても切り絵でも、君の作品は線が素晴らしい。」
「繊細な表現なのに大胆でパワフルなのが良い」
「君の作品は、なぜ立体的で動いているように見えるのか?」
など、視点や反応がまったく違うんですよね。表現のポイントをきちんと見てくれるのが本当に嬉しいです。
とはいえ国内でも先日岡山で展示した際は、嬉しいコメントをたくさんいただけました。アートを見る目や語る言葉を持った人たちに作品を見てもらうことができてよかったです。

 

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幼いころから切り絵が好きだったんですよね。

物心ついた時から刃物が大好きな子でした。子供用の先の丸いハサミしか使ってはダメと言われていたのですが、洋裁をやる母の大きな裁ちバサミをこっそり使って手を切って流血したり、父がまだ読んでいない新聞を切り取って、自信作ができたと喜んでいたら怒られたこともありました。紙とハサミ、カッターがあれば一日中遊んでいられましたし、大人になった今も、その遊びが続いているという感じです。

小学生の3年生くらいの時、図工の授業で「お話の絵」を描く課題がありまして、先生が作った簡単なお話を目をつぶって聞いて、あたまの中に見えた絵を描くというものでした。わたしは、その時に見えた風景の色と形の印象を忘れないように、自分の折り紙箱から紙を取り出して、すごい勢いで切ったりちぎったりして絵を完成させたんです。図工を教える専門の先生だったので、それはすごく褒められました。ただクラスメイトからは「絵の具かクレヨンしか使っちゃいけないのに、ずるい!!」という声が上がって、急遽、折り紙も使って良い感じになり… いま思えば先生を困らせてしまったかもしれません。それでも先生から絵を返してもらう時に「この絵はとても面白いから、もっとやってみたら?」と言われて、このときが初めて切り絵を作品として意識した経験かもしれないです。

子供の頃に母に作品を捨てられても、大人になって他人に作品を否定されても、「がっかりする」「悲しい」という感情は持ちますが、創作への欲求は変わらないです。

幼いころから遊ぶように楽しんでいた切り絵をコンテンポラリー表現として考え、取り組むようになった背景にはどのような経緯があったのでしょうか?

そもそも私が「芸術」というものを最初に意識したのは文学でした。
中学生の時に耽美文学にハマり、太宰治の「斜陽」が大好きで、死にたくなると読んで落ち着く精神安定剤のようなものでした。
あらすじとしては「没落していく貴族の話」、「ダメ息子、ダメ娘の物語」という救いようのない内容なのに「美しい」ことが中学生の私は衝撃的な感動でした。救いようのない出来事が描き方、綴り方によって「美しい暗闇」に変換されることが「芸術」の素晴らしさだと思ったんです。
色々な文学作品を読みましたが、「闇」の分量が多すぎても不快だし、「光」が多すぎてもリアリティーに欠けてしまう。そこから、文学だけでなくアート、音楽、舞台など全ての芸術について、アーティストの「変換する力」に注目するようになりました。そして、自分にとってのちょうど良い「闇」「毒」「光」の分量を探求することが、「芸術」を見る、そして作る基準になっています。私にとっての美は、「相反するものが同時に存在する事」で、それが「生きること」であり「生命力」だと思うのです。

相反するものの分量を探求することは、単純な「調和」とは違うものなのですか?

表面的な調和、美しさだけでなく、闇と毒も併せ持つ、自分にとっての「美しい暗闇」のさじ加減が、私が持つアーティストとしての「変換力」だと思っています。
今年、イギリスのアート雑誌に紹介文が掲載されたのですが、雑誌のライターさんとやり取りをする中で、「『相反するものが同時に存在する事』って『宇宙』っていうことですよね」という返信があって、「おお〜」って納得してしまいました。

 

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最後に、今後目指していく方向性について教えてください。

小さい頃から作品を作り続けていましたが、本気でアーティスト活動に取り組みはじめたのは10年位前からです。その頃に入院する事があったり、東日本大震災があったりと人生やアート表現を深く考えるキッカケになりました。
以来「アーティストとして生きる時間」を人生の最優先に出来たらと思っています。
2017年にイギリスのAwardで私の切り絵作品が3位を受賞したのは、一つの自信になりました。国や地域が変われば評価が変わることを、ここ数年に色々体験させて頂いています。今後も国内外にこだわらずに活動できるフィールドを広げて行きたいと思っています。