独特の空気感が印象的に映る野間美鈴の作品。穏やかな緑色がベースにあって、飾る場所を選ばず日常に溶け込みます。広島の農村部に生まれ育ち、東京の美術大学に進学後、現在は広島県を拠点に子育てをしながら意欲的に作品を制作しています。美術との向き合い方がどのように変化していったのかを伺いました。
作品を並べてみると、緑系統の配色が多いですよね。
緑色はわたしのなかにあるエネルギーというか、緑色はずっと中心にあるんです。原体験としては、尾道のはずれが出身なんですけど、生まれ育った地元の風景に惹かれるものがあるというところなんですかね。葛が人の住まなくなった家にまとわりついていって、夏には葉を茂らせ冬には葉を落とし、そうやって自然が人工的なものを飲み込んでいく生命力みたいなものは、表現したいものなんだと思うんです。
尾道で生まれ育って、それから東京の美大に進学されたんですよね。
物心ついた時から絵を描くのは好きだったんですけど、高校時代の美術の先生が美大受験にも積極的な人だったんです。その影響で美術系の進路も考えるようになって、地元の芸術学部がある大学という選択肢も考えてはいたんですが、東京の美大に合格できたので上京しました。
ただ、美大時代は苦労したというか、しんどかったんです。課題の連続で、描かなきゃ、説明しなきゃというプレッシャーが常にあって。当時は精神的にも追い込んで作品を描いていました。「アーティストたるものネガティブな気持ちをエネルギーにしなければならない」みたいなことをたまたまラジオで聞いて、ネガティブなことは良いことなんだって思いこんでいました。実際、そういう暗い表現の良さを評価されることもあって、自分の表現が認められるためにはこれでいいんだなとは思う反面、労力を惜しまずに描き切らないといけないんだという苦しさも同時にありました。
卒業制作作品の一部
美大を卒業後は考え方など変わりましたか?
卒業してから、「自分の好きなものをただ描こう」と思って、作品の雰囲気もだんだんと変化してきました。周りの雰囲気から受けた影響が作品に反映されやすくて、美大受験のときに、学校によって描き方を変えるように指導されたんですけど、それが意識しなくても周りの雰囲気を感じとってか描き方を変えられたというか、自然と変わっていたんです。そういう意味で、東京でアニメーションの背景制作の仕事をしたのち、広島に戻ってきて絵画教室に携わるなかで、作品も変わってきたんだと思います。
学ぶ側から教える側に立場が変わったことはいかがでしたか?
子育てをしながらできることということで、地元の公民館で時には子どもを背負いながらやっていたんですけど、賞を取ることではなくて楽しく書くことをコンセプトにして、遊ぶ感覚で描こうねって言っていました。子どもの絵って本当にすごいんです。こういう絵が描きたい、と言ってくれたら、じゃあこういう風に描くといいよ、というスタイルで、褒めながら指導をできたので、楽しかったですね。
絵画教室で子どもたちが思い思いに絵を描く様子
絵を描くことが楽しそうな雰囲気が目に浮かびますね。
思うのは、小さいころはみんな絵を描くのが好きなんです。けれど、教室でも子どもが描いた絵を「なんだこの絵は」という親御さんがいたり、「家に持って帰ってもすぐに捨てられちゃう」と聞くことがあって、親だったり先生だったり、大人のちょっとした一言で嫌いになったりやめていっちゃうんですよね。歌うとか話すのと同じように、自らを表現する、発散するひとつの手段として絵を描くということがもっと大切にされたらいいですよね。
子どもたちから学ぶこともたくさんありそうですね。
子どもたちにはもっと画面からはみ出したらいいよ、とか、なにを使って描いてもいいよと言って草を摘んで描いていた子もいたんですけど、ふと自分の絵にはそういう自由さを出せていなかったなって気づいたんです。そう考えると、急に表現の幅が広がった気がして、アルコールインクをガラスに描いてみたり、最近はいろんな新しいことに挑戦してみているんです。
それこそ学生時代は、存在している対象をどう表現するかということばかり考えていたんですけど、私から発散したいという風に考え方が変わったんです。どれだけいい気分で、楽しい気持ちで描くか、そしてそれが見た人に伝わっていくような、循環の一部というか、発起点になりたいなと考えています。そのためにはまず自分が豊かにならなければ、ですね。